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2011年4月

2011年4月27日 (水)

ストレス解消

Imgp0344 Imgp0341 Imgp0343 ストレス解消には、旨い魚を喰うことが一番だ!

マグロの隠れ身、マグロの鼻、そしてカラスミ。これで日本酒があれば、最高のストレス解消に。隠れ身って食べた事ありますか?旨いですよ~!

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神山クラブ

全国の漁師のネットワーク組織joyFがやっている、神山クラブ。全国の水産資源を美味しく食べる方法をお知らせする、試食のイベントです。今回は、全国の漁師が東北の漁師支援のためのチャリティーで、送ってくれた魚介類を食べ、その参加費を義援金として宮古と釜石へ送るために開催しました。おいしいものもたくさん。大盛況でした。

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ホタルイカってシャブシャブで食べると旨いですねえ!

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2011年4月26日 (火)

釜石湾漁協支援

第2回の支援で現地へ行ってきました。釜石湾東部漁協の萬さんもだいぶ元気を取り戻しつつあるようですが、やはりやることがないのは辛そうです。元気で頑張っていただきたいです。

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テレビにもよく出てきている宝来館の女将の岩崎さんも、復興に向け頑張っているようです。

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聞き書き甲子園で名人に選定され、高校生の聞き書きを受け入れてくれた堀内さんもお元気そうでした。

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TOKIOの「はるか」という曲(鉄腕ダッシュ「ダッシュ海岸」)の挿入歌)のPVに出演してくださっている漁協の青年部長もお元気そうでした。カラオケではるかを入れるとこの人が出てきます。

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今回は避難所で釜石湾漁協の幹部の皆さんといろいろな船に関する支援のお話をしてきました。FRPを持って行ったので、少しずつ船の修繕ができると喜んでくださいました。

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釜石で必要とされる船の形状を確認させていただきました。写真のように膝を当てて作業するので、舷の高さが70cm以上は欲しいそうです。

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被災はしていましたが、鉄骨部分がしっかりしている建物の中にチェーンブロックをつりさげて船の修繕に当たってくれうとのことです。

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写真は天地が逆さまなのではありません。天井に冷蔵庫が突き刺さっていました。

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船がなければ港内の片付けもできませんので、いつまでも漁業が再開できません。湾港防波堤が無くなってしまったので、今まででは考えられないほど、港内が波の影響を受けています。

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ホタテの耳吊り用のロープが準備されていましたが、これを使う日が来るのはいつになるのでしょうか?

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今回は概要に面している砂須漁港へも足を延ばしてみました。外洋に面していて引き波が強かったせいか、ガレキが残されていません。

俺の船はあそこだと指さした方向が建物の屋根を上でした。

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あそこの墓の下まで波がいったといった方向を見ると、高さが20m以上はありました。古い方は、墓を作る高さを経験的に知っていたのかもしれません。

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昨年の夏は、子どもたちを連れてこの場所で泳いでいたのです。昨年は漁師に、ウニとアワビ以外はなにを採ってもいいと言われましたが、ウニとアワビしかいませんでした。密漁船団が来るのが本当に心配です。

今回は現地直送で諏訪部さんが間切を送りましたが、ちょうど現地の方が使っていたタイプと同じで、喜んでいました。

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今回の支援物資と一緒に避難所で記念撮影をしました。

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修繕する船の量を考えると、まだまだFRP材料は必要になると思います。ここだけではないのですが、避難所に電気が入り、食糧が温めるタイプのものが多いことから、電子レンジが欲しいそうです。

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漁港から海中を覗くと、護岸が海苔だらけになっていました。かつては、海苔養殖をやっていましたが、辞めてからは久しいのです。種が生き延びていたのでしょうね。何か象徴的なような気がしました。

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護岸についていたウニを漁師さんが採ってくれました。本来であれば、5月から解禁のはずでした。復興したら、今回支援してくださった皆さんに、食べてもらいたいと真剣に言ってくださいました。

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シカも落ち着きを取り戻しつつあるようです。野生のシカの食害も多い地域なのです。

釜石ではちょうど桜が満開でした。満開の桜が寂しそうでした。

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釜石では、マツカワガレイの陸上養殖。チョウザメの養殖もやられていましたが、残念なことに干からびた魚が道路上に散乱していました。

釜石駅前のサンフィッシュも店を開いていましたが、残念ながら地元産の魚はありませんでした。北海道産、鹿児島産、福井産。地元漁師が魚が食べたいと言っていました。考えられないことです。築地にお願いして少し送っていただくことにしました。

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帰りは、海岸周りで大船渡、陸前高田軽油で範囲を広げて見てみることにしました。北里の岩手撤退は本当に残念なニュースでしたが、あの様子では学生の生活がままなりません。そうやら、南へ行けばいくほど、被害はひどいようです。今後も釜石の支援は続けていきますが、拡散しない程度になってしまいますが、 南のほうにもチャンネルを開放しておこうと思います。

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このアワビを採るのが解禁になる11月には船を使えるようにしたいのだそうです。定置網の漁網メーカーさんとも話をしましたが、早く入れたいのはやまやまだけど、早く入れて台風で被災してしまうと取り返しのつかないことになるので、台風時期を我慢してサケのシーズンに間に合わせるということも検討しはじめているそうです。

いろいろな歌手が被災地へ行っていますね。まさか、こんな人のポスターを見ることになるとは夢にも思いませんでした。

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2011年4月20日 (水)

ダッシュ海岸

次回ダッシュ海岸の放送は5月8日になったようです。お知らせします。

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釜石支援

本日、第二回目の釜石支援で現地に向かいます。

今回は、FRPの材料と機械・電気工具他を持って行きます。

現地で簡易型の船の修理施設を作る場所の下見も兼ねてます。

漁師合羽・漁師長靴・間切などは不足しているようですが、現地で手に入れられるものと入れられないものも見てきます。

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2011年4月18日 (月)

三国からのお土産

三国からのお土産の海藻です。松田さん、ありがとうございました。

同じ海藻でも川で生えるものと海で生えるものの違いがあるそうです。

さて、どちらがどちらでしょうか?

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3本のスパゲッティー

釜石の方が、震災で避難所に移った初日は、一日にオニギリ半分とスパゲッティー3本だけだったと言っていましたが、3本をより分けて食べると、感じるものがありますね。

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お伊勢参り

古くから伊勢参りの前に、二見の興玉神社で海につかり、祓をするのが正式な作法だとか。

伊勢二見の興玉神社のお土産と写真です。

行ってみたいなあ。5月15日が藻刈りの神事だそうですが、誰か見に行って作法を学んできませんか?

それにしてもジュゴンが可愛い!

当初、アマモも韓国から輸入していたそうですが、韓国でもアマモの価値が上がり、輸入が難しくなったため、一時は東南アジアからの輸入に切り替えたそうですが、ジュゴンが健康を壊したため、現在はどこか別のところのものに変えているそうです。

それにしても年間の餌代が2000万円なんて、なんて高いエンゲル係数なんだろう。

国内の海もジュゴンの餌がたくさんある海に再生したいですね。

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釜石湾漁協支援

みなさま

 すでに、報道等を通じてご存知の方もいらっしゃると思いますが、先週15日に釜石湾漁協の前川参事始め、3名の方が横浜市漁協(柴支所・金沢支所・本牧支所)と千葉県木更津市金田漁業協同組合の訪れ、船の支援に関する依頼を行っていきました。金田漁協では、残念ながら東北の海域で使用できるような船型の船を見つけることはできませんでしたが、金田漁協の組合長からは、千葉県内の漁協に働きかけ、使用が可能な船を探してみると言っていただけました。東京湾内だけにとどまらず、外洋に面している広い範囲に働きかければ、船が見つかる可能性もあるのではないでしょうか?すぐにとはいきませんが、少しでも助けになるのであれば、引き続き探す方向で行きたいと思います。横浜市漁協でも同様でしたが、遊漁船のいいのが見つかり、この船に関しては使用できないか検討してみたいとのことでした。

 今後のことですが、他所でも船を探してくださっている方もいらっしゃいます。横須賀のアナゴ船を使ってみないかというお話も頂いています。船の運搬に関しても方法を考えてくださっている方もいらっしゃいます。

 釜石では漁具も何もないので、そうした道具も寄付してくださる方を探しています。

東北の各県漁連で希望を募り一括発注することも始まろうとしていますが、メーカーが一度に大量にはつくれませんので、漁師に手渡るのがいつになるか分かりません。ものすごく急いでいると言うわけではありませんが、中期的な視点で船と漁具は探し続けたいと思います。行政側からの支援が始まり、行き渡るようになるまでは、こちら側でも動いていようと思います。

 現地とのやり取りでは、仮設住宅が出来上がり移るまでは、当面の生活支援物資は足りているというお話のようです。

20日には再び現地へ行きますが、当面必要な船の修理のためのFRP材料や工具類、漁師合羽や長靴などを持って入ろうと思っています。

現地ではマキリと呼んでいますが、漁師の使うナイフやロープ類も必要になります。

 船を修理するために、簡易でH鋼を組み、チェーンブロックを吊るして造船所代わりになるものを設備することも考えようと思います。

以前、打瀬舟復活プロジェクトで製作した「舫」のロゴ入りのTシャツも現地へ持って入ります。漁師さんたちに、みなできて貰って復興へ向けての結束を固めてもらいたいと思っています。

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2011年4月10日 (日)

釜石支援

お台場環境教育推進協議会が主催して、市川市の福田さん、joyFが協力して、釜石の支援のために、お台場学園で海苔摘みのチャリティーイベントを開催してくれました。海苔を摘んで、募金をしてもらうおうというものです。何と157777円も募金がありました。お台場の皆さん、ありがとうございました。

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釜石被災状況

あまり被災状況写真を出すのも、何か自分が元気をなくしていくので辛いのですが、現地へ行くと、現地の人から逆に元気をもらってくるような感じがします。報道で悲惨な映像を見続けたことで関東の人たちが元気をなくしているような気がしてなりません。東北の人たちは確実に復興に向け、頑張り始めています。支援する関東の人たちが元気を出さなくては、長期の復興を支えることができません。関東の人たち、元気を出しましょう。元気を出して普通に生活できるように頑張って仕事をしましょう!そして、現地の人たちを支えていきましょう。

現地の人たちは、長い緊張状態にあります。気持ちが張りつめています。現地に知り合いのいる人は、ぜひ会いに行ってほしいと思います。もう間もなく東北新幹線も復活するはずです。現地の人たちと、何でもいいので話をすることで、現地の人たちの心も安らぐはずです。どうか行ってあげてください。

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あるところを境に信号も止まっている。

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黒い痕跡が波が来たところ。

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GSの上から波が来ている。

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19t船。はためく大漁旗が悲しい。

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こんな船が・・・。

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賑わっていた魚市場。港湾はほとんどが沈下しているようで、満潮時になると完全に水没する。

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グランドホテルが。

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お世話になった㈱山元は、門柱を残しただけで、何も残っていない。社屋も船も。それでも元気な社長の姿は見れた。最初は廃業しようと思ったらしい。でも、写真が皆、自ら動き出してくれたので、自分も頑張ろうと思ったそうだ。今は、釜石港湾の詰め所で、復興のために頑張っている。皆が頼りにしているのだ。何とか頑張ってほしい。でも体だけは壊さないように。

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打ち上げで使っていたIN。夢ワカメの送ってくれる試食品はすべてこのママさんの手製でした。店は跡かたも無くなっていたが、二人の息子さんも元気で、きっと復活してくれることを信じています。

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懐かしの呑んべ横町。お通しにマツタケ1本出してくれたんだよなあ。こういう怪しいところも復活してほしいなあ。

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次回の支援物資運搬は20日ごろに行う予定です。

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釜石湾漁業協同組合物資支援10

毎年8月の第1週に行っていた釜石ツアーは、今年で10年目を迎える予定だった。例年、農家での民泊をしていたが、ここ2年ほどは漁家民泊も取り入れていた。釜石湾東部漁協の名人と言われていた萬さん親子。この方の家に泊めていただき、ご家族とバーベキューをやるのが恒例だった。当初、組合に就職する予定だった息子さん、お父さんに給料を聞かれ、漁師を継げばその倍は払ってやると言われ、漁師になった息子さん。魚嫌いで好物はカレーと言っていた息子さん。カレーとウニは飲み物だと言っていた息子さん。朝、小型定置網を引き上げ、朝ごはんのおかずを採りに行った時に、お孫さんが一緒に乗るとなんともやさしい目をしていたお父さん。我々が泊る時に、バテイラを取ってきて塩ゆでにしてくれ、一生懸命、美味しいでしょと言いながら進めてくれたジャイアンツファンのお孫さん。ウサギと楽しそうに遊んでいたお孫さん。そして魚をおいしく食べさせてくれたおかあさんと、美人の若奥さん。

探し人ネットで無事は確認できていたのですが、やはり顔を見なくては安心できません。箱崎へ向かうことにしました。

途中、自衛隊からはこちら側からの道は分断されていて、仮設で道路を作ったが、一般車両は危険だと言われ、大きく迂回。やっとのことで、箱崎に向かいました。漁港は壊滅状態。お孫さんが幽霊がいると言って恐れていた墓も倒れ・・・・。よく無事でいてくれました。

そして対面。家族の全員と抱擁。実gは、前日、水産課の方が話を聞きに行った時に、量はもうやめるとまで言っていたのだそうです。私と顔を会わせ、ホットしたのか、3年で漁を復活させると言ってくれました。息子さんとも話ましたが、とにかく船が欲しい。船さえあれば・・・、日に日に思いは強くなっていくようです。何とかしてあげたい。

萬さんの家は集落でも相当な高台にあります。家の前が避難所になっているそうですが、もうすぐその前まで波が来たそうで、慌てて、峠道を昇る方向に行ったのだそうですが、反対側からも波が来たために、さらに山をよじ登ったんだそうです。もう終わりかと思ったと言ってました。その高さを見るとにわかには信じられません。湾内の遠くを指差し、あそこの海底が見えた。あそこの灯台のはるか上を波が来た。10mもあるでしょうか防潮堤のはるか上から波が襲い・・・。釜石湾東部漁協ではなくなった組合員が200名。そのかぞくまで入れると、もはや集落は壊滅と言っていいでっしょう。萬さんも仲間を失ってしまったのが、一番辛いと言っていました。でも、希望を失わず復興してほしいものです。次に来る時には、おいしいウニをと言ったら、そのなものならすぐにでも採ってやると言って笑ってくれました。

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釜石湾漁業協同組合物資支援9

この後、根浜の宝来館に向かうこととした。NHKにはたびたび登場し、元気な姿を見せていた岩崎女将が気になったからだ。頑張りやで、いつも人のことを心配しているような女将。気を張っていて無理をしすぎていないか心配だったのだ。

根浜に向かう途中、鵜住居を通った。ここは、防波堤がなく海側が開け、津波の被害をもろに受けたということが分かる。内陸のほうまで、もはや全滅といった感がある。ガレキだけが残り、何もない。釜石の市街地以上に津波のすさまじさを感じる。今回の震災は地震災害ではなく津波災害だということがに認識できた。防波堤がなく、平坦で奥が開けているようん土地、石巻、気仙沼、南三陸、陸前高田、宮古などは、おそらく凄まじいことになっているだろうことが、この景色を見ているとおおよそ分かる。この復興にはいったい何年の歳月を要するのだろうか?戦後、積み上げてみたのものが一瞬にして無くなってしまった。おそらくはそれ以上の年数を要するのかもしれない。その年月を、どう過ごしていくのか、本当に考えていけないといけないのかもしれない。

根浜に向かう途中、小中学校の前が自衛隊が使用するのだろう整地が進んでいた。この小学校の上を津波が通過していったそうだ。小学校の大時計がちょうど3時25分で止まっていた。これほどの津波が来るとは思わずにたくさんの子どもが犠牲になった地区もある中で、ここの小学生は隣の中学校の生徒が手を引いて山の上まで逃がしたそうだ。隣の大槌街は、地震後、庁舎の前にテントを張り災害対策本部を設置し、町長以下幹部が全員集められたが、そのためにその全員が津波にのみ込まれたそうだ。判断の分かれ目。予想もしなかったことだろうが、そうして生き死にの境目があり、復旧や復興、避難者への対応を考えると、悔いが残ることだと思う。

あの美しかった、白砂青松の根浜の海水浴場にはもはや砂浜がない!海岸全体が地盤沈下をしているのだと思う。これは釜石港でも同様だった。おそらく平地には皆住みたくないだろう。復興や土地利用は改めて考える時が来ている。

一次避難所として周辺の住民を受け入れていた宝来館だが、現在では皆、町場の避難所にいていしているそうだ。移転先の連絡先が旅館の前に掲示してあった。女将も親戚のところに身を寄せていることが分かったので、夜になって会うことができた。

はやり張りつめていたのだろう。ホッとした顔を見せてくれた。疲れもたまっているのだと思う。体だけは壊してほしくない。無理をせず、ゆっくりと元気を取り戻してほしいと思った。私の手を握り、どうしていいのか分からないが、必ず宝来館を復活させたいので協力してほしいと懇願された。海に流され帰らぬ人となった人たちがたくさんいる。砂浜が無くなってしまったが、やがて砂が戻ってきてくれると信じている。この海岸を花でいっぱいにして、慰霊が海から見た時に美しい海岸にしたいのだと言っていた。

はやく復興させて、釜石祭り、引き船祭、釜石よいさ、花火大会を心から喜びながらできる日が来てほしいものだ。

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釜石湾漁業協同組合物資支援8

ここから尾崎白浜の避難所へ向かった。尾崎白浜の組合員でなくなったのは15人だそうだ。被害が少ないと言っていたが、それでも15人も無くなっているのだ。物資の一部を、特に炊き出し用の食材を届けつつ、本当は会いたい顔がたくさんある。

途中の光景は、目を背けたくなるようなもので、特に、もともとの景色を知っている者にとってはショックが大きくて、声を失ってしまう。ため息とうなり声しか出てこない。同乗者が初めてだったので、説明しなければいけないのだが、説明もできない。

平田の入り口のローソンは表側から裏側へ波が突き抜けたのだろう、屋根だけ残り壁を向こう側がそのまま見える。漁協も何も残っていない。警察も2階までは被災。おばちゃん一人でやっていたラーメン屋は跡かたもない。

尾崎へ着くと思わず目を覆った。言葉が出なかった。わずかに道路としてガレキを片づけている隙間を縫って車を走らせる。尾崎小学校が避難所になっているのだ。当初、さまざまなところに分かれて避難所生活を送っていたこのあたりの漁師たちは、みなここに移動してきている。ちょうど青年部長や、名人の堀内さんは役員の会議で外出中とのことだったが、それでも懐かしい顔がいっぱい。本当に無事で良かった。この小学校は今は廃校になっている。三年前に合併が決まり、廃校になるということで、ここの小学生たちを横浜へ招待していたのだ。我々にとっても思い入れが強い。物資を下しながらいろいろな話を聞いた。

・電気は、ちょうど道路工事の発電機があったので、工事がストップしていることから、それをそのまま使わせてもらっているとのこと。

・水は市役所の給水車が頻繁に回ってきているが、そのほかの水は沢水を引いてためて使っている。

・燃料は定期的に買い出しに行っている。

・やはり生鮮の食材は欠乏しているが、冷蔵庫がなく置けない。やはり食糧不足は深刻のようだ。町場へ行けば買えないわけではないのだが、それをできないほどにすべてを失ってしまったのだ。

・ガレキの中から薪を広い、校庭でたき火をして過ごしている。校庭のたき火を指して、「スナック焚き火」と言って笑っていた。寒いし、夜はなにもすることがない、眠れないし、ひたすら皆でたき火を囲んで話しているのだそうだ。

・工具、FRPの材料、発電機など、そうした道具さえあれば、破損して漂着している船を自分たちで直せると言っていた。仮説の簡単な造船施設を造ってもよい。漁師は技術を持っているのだ。何もすることがないのが一番辛いと言っていた。これは何とかしたい。船を集める話もそうだが、先に向かって何かを始められるという、その手伝いをできるのが一番良いのではないだろうか。先が見えないことで自殺者が増え始めているとも聞く。復興の少しでも手伝いになれないかと改めて、心に誓った。

仮設住宅は、材料不足から建設が遅れている。釜石だけでも初期段階で5000戸を予定しているそうだが、遅れている。仮設住宅には家電はついているのだろうか?仮設住宅建設で、業者がすべてやるのではなく、現地の人たちを雇用できないのだろうか?前向きに働ける場を作ってあげられないだろうか。

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釜石湾漁業協同組合物資支援7

避難所へ行く前に漁協へ挨拶に行った。ここで見られる顔も多いためだ。釜石市役所の菊池さんも忙しい中、時間を取って、ここまで駆けつけてくれるという。車を駐車場に入れたまま、釜石駅に向かって歩き始めると様相が一変する。自然の力というのはここまで凄まじいのか。どうやらこのあたりが津波の最高到達点だったようだ。ここまでの間の何も変化の無い普通の生活と隣り合って、こんなに凄まじい光景が拡がっていることに、なんとも言えない混乱が頭の中を渦巻いていた。心が混乱していた。

呆然としているところに釜石市役所水産課の菊池さんが現れた。ここでも涙の抱擁。役所の人でもあり、避難者リストに最後まで名前を見つけられな立ったために、最後の最後まで生きているのかが分からなかった人だ。365日、市場の開いている日は一日も欠かさずに3時に起きて、水揚げの状況をチェックしていた人だ。現場によく出る人なので、それはそれは心配だったのだ。この人にどれだけ御世話になってきたかを考えると、ここでは書ききれない。とにかく無事で良かった。

そして釜石湾漁協に行く。漁協は釜石駅の2階に仮事務所を開いていた。それだけ漁協に力があるのだと思う。そして、雁部さんに会うことができた。雁部さんも泣いていた。広域のネットワークで支えようとしてくれている我々に本当に感謝していると言ってくれた。これからも支え続けなければいけない。船を集めはじめていることにも感激してくれていた。遅くとも11月のアワビの口あけには間に合わせたいと頑張っているとのこと。前川さんと、この雁部さん、そしてもう一人。本当は、ここに平野さんがいるはずだった。平野さんは消防団員であったために、逃げ遅れ被災し遺体も見つかっていないまま、死亡したことになったそうだが、ここでは、平野さんの名前を出して話すことは出来なかった。TVに平野さんの奥さんと息子さんが出ていたが、小学生の息子さんは お父さんを尊敬し、大きくなったら消防団員になるそうだ。この話を聞いた時は涙が止まらなかった。私も一緒にもぐって仕事をしていた仲だった。心からご冥福をお祈りいたします。

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釜石湾漁業協同組合物資支援6

物資を下している最中に、観光物産館の菊池さんに偶然会うことができた。毎年、釜石を訪れるたびにお土産を買いに行き、お世話になってきた人だ。この人とも涙の抱擁。店の物資は避難所用にすべて拠出したそうだ。どうやって復活できるのか、まだ検討もつかないといって悲しそうな顔をしていた。でも、元気で顔を見ることができただけでもいいじゃないですか。命さえあれば何でもできるって自らを奮い立たせるように言っていた。

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釜石湾漁業協同組合物資支援5

鮭の孵化場から、釜石市役所の物資集積場所へ移動する。物資の集積所は釜石駅の並びにあるシープラザ釜石の駐車場とイベント用テントがそれに充てられていた。シープラザが災害対策本部になっている。ここまでの道すがら、やはり被災した痕跡は見受けられない。集積所では、イベントテントが食糧の集積、駐車場が一般物資の集積と分けられていた。今回、市役所あてに物資を届けたのは、漁協が一般物資は不公平のないように配給を受けるので、漁協で個別に必要としている物資以外は、市役所へ卸してくれと言われていたからだ。何とも慎み深い。実は、最後まで会う人ごとに、みなが、ここよりもっとひどいところがある。私たちはまだましということを言っていた。東北の人はすごい!それにしてもシープラザの壁に描かれているマンボウの絵が物悲しかった。

それにしても物資輸送のトラックが次々と入ってくる。その車列に並び順番待ち。その間に釜石市役所の窓口で緊急物資輸送の証明書を発行してもらった。しかし、この証明書は釜石市内だけの話らしい。そして周辺を歩いてみた。さまざまな自治体がバスで駆け付けているようだ。ここでは、各務ケ原市役所のテントと大阪市のバス、国土交通省のプレハブなどが置いてあった。社会福祉協会のボランティア受付テントがセットしてあった。現在受け付けているボランティアの仕事は、避難所の清掃と炊き出しの手伝い、交通整理、物資の仕分けんお手伝いだけといったところか。

食糧、一般物資とをそれぞれに下ろした。下ろす作業は大和運輸がスタッフを出し、それをボランティアが手伝っている。ひっきりなしに来る物資を次から次に整理下ろし続けているので、相当に疲れているのだろう。見るからに疲れ切った表情をしている。そこで、当初は積み下ろしはすべてスタッフがやると言われていたのだが、我々が率先してやることにした。大声を出し合いながら、すさまじいスピードで下ろされていく物資。いつの間にか、現地スタッフも楽しそうに物資の下ろしをやり始めてくれていた。

ここでほとんどの物資を下したが一部、漁協の人たちが多くいる避難所への物資を残させてもらった。実は顔を見たいことの一方で、さすがに手ぶらでは行けないという変な思いもったからだ。

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ここで4tトラックのドライバーとは涙のお別れ。いい仕事をさせてくれて嬉しかったといって泣いてくれた。また物資の運搬があったら声をかけてほしいと言われた。ありがたい話だ。皆様からお預かりした貴重な物資は、確かに納めさせていただきました。ありがとうございました。それにしても膨大な物資が届いている。これを要望のあった品物を要望のあった避難所へ、この中から整理しながら探し出して運搬するのは、容易ではないというのがすなおな感想だった。

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釜石湾漁業協同組合物資支援4

仙人峠トンネルを抜けた。このトンネルを抜けるのは何度めだろう。これを抜けると釜石に入る。また懐かしい人たちに会えると思うと胸がワクワクしてくるのが、これまでだった。早く会いたいと思う一方で、はたしてどんな顔をして会ったらいいのだろうと考えると複雑だった。安否は既に分かってはいるものの、みな家族や知り合い、家や財産を亡くしているのだ。何と言ったらいいのだろうかと考えたが、その時の自分の素直な反応に任せようと決めた。

現地の方からもたびたび電話が入るようになってきた。おそらく忙しく時間を使っているのだろう。なかなか着かないことを心配してくれていたようだ。こちらの流行る気持ちをじらすように渋滞に巻き込まれたが、ここは落ち着くしかない。しかし周辺の景色を眺めても、どこにも被災したようすが見受けられない。GSも普通どおりにやっている。給油量の制限もない。コンビニは、外から眺めた限り、品数が揃っている。東京よりむしろ品数が充実しているかもしれない。これは、被災した街の中なのだろうか?????

約束した最初の物資下ろしの場所、漁協のサケの孵化場に到着した。ここは、川の比較的上流にあったため、被災を免れたのだ。実は現地とのやり取りは、ここのFAXが生きていたためにできたのだ。前川さんが複雑な笑顔を見せながら立っている。幾分痩せたように見える。目に涙が滲んできた。そして元気を確かめるように抱擁。後は、言葉はいらなかった。聞きたいことは山のようにあったが、まずは物資。今回の物資の内容、送ってくれた人。仕分けをしてくれた人のリストを渡し、和智さんの紹介もした。ここでも一部の漁協で必要な物資を下ろし、他は釜石市の物資集積所へ持って行くこととなった。

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釜石湾漁業協同組合物資支援3

前沢SAで早めの朝食を取った。この先、食べられるのは帰るまで無理かとあきらめていたからだ。SA内は確かに売り切れ表示もあるが日常とそん色がない品数が揃っている。このあたりは被災していないのかとも思ったが、やはり道路が通るというのが大きいのだろう。途中、福島県内の路面が段差があり荒れていたが、その他は普通どおりに走り抜けることができた。道路が早期に復旧すれば電気も水もガスも通る。物資も運べるのだ。確かに、今回は海際が被災しているのだから、船での物資運搬が有効だったと思う。これについてはヘリが法の網にかかりうまく使えなかったことなども障害になったそうだが、法はうまく使ってこそ法だろうと思う。政治家のリーダーシップはまだまだ不足しているとしか思えない。それにしても、国土交通省道路局、いい仕事してる。

花巻JCTを抜け、東和ICで高速を降りた。物資輸送ということで料金は無料にしてくれたが、帰ってから証明書のコピーを送るように指示された。これを送らないと請求書が来るらしい。

ここからは一般道で約2時間。近づくにつれ緊張感が増してくるが、損傷を受けている個所がどこにも見当たらない。遠野に入っても、周辺は普通に生活している。普段通りの姿だ。GSは列もなければむしろ客引きをしている。道の駅「風の丘」もまったく普通どおり。ここにきて、どうやら地震の被害がなかったのだということに気がついた。では、どこまでが被災地なのだろう。周辺には自衛隊車両や駐屯施設が数多く見られるようになってきた。頭の中が混乱を始めた。(続)

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釜石湾漁業協同組合物資支援2

首都高速から東北自動車道に入った。横浜から湾岸線を通り、荒川沿いに北上する。考えてみれば、ここも被災地なのだ。知り合いの市川の海苔漁師も被災している。通り過ぎるのが申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、考えてみれば、ここから釜石まで9時間、さらにその先までも永遠と被災地なのだ。膨大な量の被災者がいることを改めて実感せざるをえなかった。

警察署で緊急物資運搬の証明が取れれば、高速道路は無料になるそうだが、その証明をとるのに時間がかかるため、今回は証明を取らずに出発した。こうした対応もスムーズにできるようにならないものだろうか?帰りに分かったことだが、とりあえず物資輸送というと無料で通してくれるが、後日、証明書のコピーを送らなければ請求書が来るそうだ。不正を行う人がいる限り、こうした煩雑さが消えないのだろう。

東北自動車道に入る。ひっそりとどこも暗いのだが、ところどころで、光が強い区域がある。ラブホテル街だ。どうやらラブホテルは節電はしないらしい。う~ん?!

給油所はたいへんスムーズに入れる。一時期とは違い、列があるわけでもなく、緊急物資輸送者が優先されるわけでもなくなってきている。安心していいのか拍子抜けなのか、複雑な気分だった。

途中で長めの休憩に入った。あまり朝早く現地についても、現地の方々に迷惑がかかるだけだし、現地の状況も分からなかったので、手前の安心して休息できるようなSAを選んだ。気温は氷点下3度。現地に人たちは寒い思いをしているだろうなあと思うと、気が急いたが、我慢するしかなかった。

ところで今回の物資輸送をやってくれたトラックのドライバーの方は、南相馬の出身でご自身も被災者だったのだ。本人も物資輸送の仕事だとは知らずにきたそうだが、何か、申し訳ない気分がした。本人と話をすると自分は、ドライバーなのでいつでも必要物資を運べる。釜石の人たちのために物資を運ぶ仕事ができてうれしいとまで言ってくれた。何てやさしい人なのだろう。今回の支援物資運搬は、そうした善意の塊で出来ている。それを届けるのだから責任も重い。あらためて気を引き締めなおそうと思った。

前沢のSAで空が白み始めてきた。さあいよいよだ。(続)

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釜石湾漁業協同組合の物資支援1

以前からアマモ場再生の活動で支援してくださるなどでお世話になってきた横浜建築スタイルの和智さんが、三陸の人たちのために物資を届けたいと言ってくださった。我々としても支援を考えていた矢先であったので、これはありがたかった。仕事の関係で使っている日通の倉庫を利用し物資の集積と仕分けができる。また、運搬のトラックも手配してくださることになった。これにより夢ワカメワークショップを中心として活動する各団体、全国の漁師が集まって作っている会社エンジョイ・フィッシャーマンが協力してくれることになった。

義援金も釜石湾漁協の復興のために役立てたい。これは、ここ10年に渡り、東京湾を美しく豊かにしていきたいと活動してきた夢ワカメワークショップを釜石の漁業者を中心とする人たちが支援してくてくれたという恩義があるからだ。夢ワカメの初期のころ、どうにも困っていた時を助けてくださった方々だからだ。それ以来、毎年のように子どもたちを連れ、釜石を訪問している。こういう時こそ、恩返しがしたい。広く行き渡るような支援も必要かもしれない。しかし、申し訳ないが、私たちはこの人たちの支援がしたいと思ったのだ。

これによる呼びかけで集まった物資はなんと10t以上。なんともありがたい。4月2・3日で物資の仕分けに集まってくださったボランティアの方々の数、何と62名!しかも手慣れている。それでも10tの物資を仕分けるのに、まる一日の時間がかかった。本当に感謝するしかない!ありがとうございました。

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集まった物資だが、やはり衣類が多い。残念ながら、これは送れないというものも多い。送れないというものでも、フィリピンでは役立ててくれるそうだ。今回役立てられない衣類などは、フィリピンへの支援物資として活用させていただくこととした。そうしたパイプを持っていた参加者がいたことも心強かった。医薬品、食糧が少ない。震災から3週間、民間援助の手も少しずつ入り始めていることから、物資も充実してきつつあるらしく、一方で、ごはんのおかずが欲しいとか、生鮮品がおけないので冷蔵庫が欲しい、洗濯機の前に100人以上の人が列を作っているという話も伝わってきていたことから、今回は急きょ、冷蔵庫、洗濯機、発電機を物資の中に入れた。これも参加者の中にリサイクルショップの方がいたことで調達することができた。こういう時の多業種のネットワークというのは本当に心強い。

JEANの小島さんからの紹介で、愛知県は表浜ネットワークの田中さんも、仕分けされた状態の物資をダンボールで120箱分、送ってくださった。また、joyFのネットワークで全国の漁師さんたちがそれぞれの地方から食材を送ってくださった。これも本当に感謝しています。

後日、分かったことだが生鮮品不足からの野菜の欠乏対策で野菜ジュースとかトマトジュースなども有効だそうだ。

後日、搬入先で分かったことは、ここまで仕分けしても、さらに細かく内容物数量を書き込まないと、避難所で必要とするものを集積地で探し出して持って行くことは、さらにたいへんな労力が要りそうだということだ。出来る限り数量も入れて細かく、さらにそれをリストにして送り込むというほうが親切なのだろうと思う。

初期段階の必要とされるものは一般車両が入ることが困難なために自衛隊や米軍、あるいは政府や自治体からの支援で賄われるものの、数が少ない。逆に一般からの支援物資が届き始めるころには、必要とされるものが刻々と変わってきている。時期に分け、必要物資のリストの統一規格をつくり、どの地域に何をどれくらいとコントロールできる物流の機能は、物流の専門家にやっていただきたいと思った。

これを、優先度の高い順に4tトラック、3tダンプ、2tトラック、ハイエースの4台に積み込んだ。さまざまな形状のダンボールがあるので、積み込みが難しい。佐川や日通の統一規格のダンボールがありがたかったが、いかんせん数が少なかった。それでも日通には相当に助けていただいた。空気を運ぶのはもったいないからと言って、最後は空隙にはすべて衣類を詰め込み、満載の状態にして行くこととなった。今回は、和智さんがトラックを手配してくれたものの、長期で支援を続けるためには、この運送費捻出方法も、今後は考えていかなければならない。

今回は現地からの要望で、酒とタバコも入れた。現地の人たちと気心の知れた仲間たちが集めてくれた。初期段階とは違い、こうしたものも重要なのだろう。何しろ、ずっと緊張感が続いたままになっているのだ。

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4月3日18:00出発。かばんには、現地でお亡くなりになった方のために線香を忍ばせた。緊張した気分で少しハイになっている自分に気がつき、被災している人のために、落ち着かなければと自分に言い聞かせながら、この寒い夜を現地の人たちはどのように過ごしているのだろうと考えると、なんともやるせない気分になった。(続)

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